『神を見た犬』ディーノ・ブッツァーティ2009年05月04日 16時35分56秒

光文社古典新訳文庫なんていう大げさな文庫。
ちっとも古典じゃないじゃないか!
たかだかここ100年くらいの作品ばかりだ。
それを古典って。ちょっと。

ま、それはともかく。
久々に愉しかった!読書が。
こういうの書く人、日本にはいない。
幻想文学って括りになってはいるけど、
決してそうは感じなかった。
しっかりとリアルな「人」が書かれている。

ただ、やっぱり自分の好みは変わっているのかなぁ。
他の人があまり食いつかない作品に惹かれた。
『コロンブレ』や『七階』は誰が読んでも同じように
興味を持つところだと思うけど、
やっぱり自分的には『グランドホテルの廊下』!
昔のピンクパンサーを観ているような。
あの実写版のほうね。
なんかたまらんなぁ。

古井由吉2009年05月05日 18時10分05秒

今日買い物先で意外なことが...
どこにでもあるような、スーパーに併設している小さい本屋。
雑誌ばかり置いてあるような。

そこの「文芸書コーナー」なんていう陳腐な造りの棚に
古井由吉の作品がズラリ。
どんな奴だ!担当者は。
思わず( ̄ー ̄)ニヤリ

でもきっと、需要はないよな。
このあたりの住人の誰が読むんだよ。
『白暗淵』『槿』なんて。
『仮往生伝試文』を2冊もおいているし(笑)

敬意を表して『野川』を手にレジへ。

文章を読みたい2009年05月06日 21時31分53秒

本、読書というと、
普通はストーリーを読むんでしょうかね?

文章は読みませんか?

何を言ってるんだか。

私の場合、極端なところ、「筋」はどうでもいいんです。
どんな登場人物が、何をどうしようと。

それよか、景色の描写や行動の描写が
「良い文章」で書かれていれば、それでいいんです。

物語を読んでいると、一回読んだらハイ終わり。
良い文章は、何回も愉しめる。

そこらへんの違いを言わんとしているのですが...

勝手なことを言わせてもらえば2009年05月08日 21時39分44秒

前回に続きますが、
「表現を感じる」読書ってやつです。

文章の表現、言語の表現で
ゾクゾクくるってのが大切に思うんです。

文学にどんでん返しは求めたくないんですよね。
川の流れ、木々を通り抜けてくる
風のことだけだっていいんです。

ベタですけど、『雪国』なんてのは良い例です。
のっけから、くるぞくるぞ、と待ち受けているところへ
「キター!」っていう文章の連続。

最近の小説では滅多なことではできない読書なので
非常に残念なところです。
現代の文章が悪いわけではないのでしょうが、

ただ、そこらへんは好みの問題もありますね。
表現、特に比喩ってのは好みが左右します。

私は、村上春樹のメタファー、隠喩がダメです。
ストーリーが申し分ないのは当たり前ですが、
あの隠喩が出てくるとダメなんです。
「ハァ?」ってなってしまいます。
普通に読ませてくれぇ~、とストレスが...
翻訳は好きなんですけどね。

う~ん、読み手は勝手なことを言うなぁ(笑)

読書メタボ2009年05月15日 16時21分15秒

文藝春秋SPECIALの春号。
ちびちびと読んでいるが
なかなかに面白い。

外山滋比古氏の『読者の進化』を
みんな読むべきだなぁ。

外山氏は、かの有名な
『本を読む本』の訳者だ。

これは!という言葉が続く。
「浴びるように本を読んだ人ほど早く知的に枯れ急ぐようで」
「読書はいいが、読書メタボリッック症候群になってはコトである」
「自分の頭をはたらかせて、せいぜいものを考える」

ここのブログの隠れテーマみたいなものだなぁ。
まさにこれが言いたかったし、常に考えていることだった。
人様のブログなんかを読んでいると、
年間100冊やら300冊やらを目標に掲げているのがあるし、
一日一冊なんていうのある。
正直どうかと思う。

そんな人たちも、文末の四行を噛みしめて読むことで
幾分か救われるような気がする。
あえて抜粋はしませんが...

太宰との出会い2009年05月16日 16時25分09秒

『お伽草子』 太宰治

中学の頃、夏休みや冬休みになると
知り合いの大学生に勉強を見てもらっていた。

その人がかなりの太宰ファンで
桜桃忌には黒を着て墓参りに行くほどの
熱の入れようだった。

普段からやたらと太宰の話をするので
いつの間にか自分も読み始めていた。
『走れメロス』に始まって
『女生徒』『駆込み訴へ』『斜陽』
『人間失格』ときて、『お伽草子』だった。

この自虐的妄想パロディ。
今の自分の性格は、ここから始まったような気がして
コワイやら、ウレシイやら複雑だ。

『楢山節考』 深沢七郎2009年05月17日 16時28分30秒

小学生のころ
前出の人物に連れられて
映画化されたものを観にいった。

今思えば、小学生には無理でしょう?
と思わないでもないが
彼はどうしても私に観せたかったようだ。
そして
「やっぱり原作でないとダメだね」
と言った。
読めとは言わなかった。

その後、何年もしてから読むこととなった。
映画を観たことがあったなぁ
と、何気なく思い出しながら
手に取った一冊だった。

これはマズかった。
こんな小説があるのか!
小さいころに聞いた
姥捨て山伝説のイメージとは
まったく違った。
うまく表現できないが
それまでに読んだ他の小説が
みな陳腐に思えるほどの衝撃だった。
人々の想いを、すべて書ききらずに
すべて伝えきる。
小説って、こういうことができるのか。

以後、『おくま嘘歌』と併せて
封印すべき作品となっている。
滅多なことでは再読しない。
したくない。

本日のトイレ内2009年05月17日 16時30分05秒

『庭仕事の愉しみ』 ヘルマン・ヘッセ

『庭でのひととき』という
叙事詩を読みながらトイレへ。
いわゆるヘクサーメターの詩形。

いま、自分の庭でやっている作業とダブルので
読むことと庭仕事がリンクしていて
なんとなく愉しい。